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映画「ソドムの市」作品情報
基本情報
「ソドムの市」は、1975年に製作され1976年に公開されたイタリア・フランス合作映画です。鬼才ピエル・パオロ・パゾリーニが監督を務め、パゾリーニの遺作となった問題作として知られています。
原作は18世紀のフランスの作家、マルキ・ド・サドによる『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』。パゾリーニは原作の舞台を、第二次世界大戦末期のナチス傀儡政権下のイタリア北部の町サロに置き換えて映画化しました。
物語では、4人の権力者(大統領、大司教、公爵、最高判事)が別荘に18人の少年少女を監禁し、4人の語り部から淫蕩な体験談を聞かされることで欲望をかき立てられ、少年少女に対して自らあらゆる変態行為に及ぶ様子が描かれます。
4人の権力者役には、パオロ・ボナチェッリ、ジョルジョ・カターニア、ウンベルト・P・クインティリアーニ、アルド・ヴァレッティといった俳優が起用されました。語り部役は、ヘルガ・ライン、セッテ・ヴァッカ、エレーナ・フォーゲル、シェーラ・ケリーが演じています。
本作は上映時間が117分と長く、過激な性描写と暴力描写が特徴です。公開当時、一部の国では検閲によって上映禁止になるなど、物議を醸しました。そのショッキングな内容にも関わらず、現代社会への痛烈な批判という監督の意図がこめられた問題作として、芸術性の高い評価も受けています。
キャスト
- 4人の権力者役:
パオロ・ボナチェッリ、ジョルジョ・カターニア、ウンベルト・P・クインティリアーニ、アルド・ヴァレッティ - 語り部役:
エルコリナ:ヘルガ・ライン
シニョーラ・ヴァッカ:セッテ・ヴァッカ
シニョーラ・マッジ:エレーナ・フォーゲル
シニョーラ・カステッリ:シェーラ・ケリー - 犠牲者役の少年:
フランコ・メルリーニ、ウンベルト・チェッキ、クラウディオ・チッコ・トリンカノーニ、ファブリツィオ・メンゲット - 犠牲者役の少女:
グラツィエッラ・アニッキアーリコ、ドリス・ロンブロージ、シーラ・セティ、アントニエッタ・ベルッツィ
「ソドムの市」あらすじ【ネタバレあり】
ここからは「ソドムの市」の詳細なあらすじを紹介します。過激な表現が含まれますので、閲覧には十分ご注意ください。
地獄の門
物語は、4人の権力者がファシスト政権の別荘に美少年・美少女を狩り集めるところから始まります。9人ずつ選ばれた計18人が別荘に連行され、権力者から倒錯的な「規則」を告げられます。それに背いた者には容赦のない罰が待っていると宣告され、彼らの狂気の宴が幕を開けるのです。
変態地獄
物語の進行役を務めるのは4人の売春婦(語り部)。彼女たちが日替わりで披露する淫らな体験談に触発され、権力者たちは少年少女相手にあらゆる変態行為を繰り広げていきます。登場人物全員が全裸で売春婦の話を聞き、それを実践するかのように少年少女を辱め始めるのです。
権力者の行為は日に日にエスカレート。語り部の体験談も、大学での乱交、獣姦、スカトロなど、より過激なものへと変貌を遂げていきます。
糞尿地獄
次第に権力者の行為がエスカレート。語り部の話も過激さを増していく。
権力者は少年少女に小便をかける、口に大便を塗るなどの行為を行う。
少年と母親を獣姦させ殺害、子供を火あぶりにして処刑するなど凄惨な場面も。
血の地獄
クライマックスに差し掛かると、ついに物語は「血の地獄」へ。性的快楽を得るため、権力者は少年少女をありとあらゆる方法で拷問し、殺害していきます。生殖器切除、目玉えぐり、舌切り、焼印、斬首…言葉にするのも恐ろしい凄惨な場面が続きます。
ラストでは、処刑された少年少女の亡骸が吊るされた中庭で、権力者たちが乱痴気騒ぎ。一方、終始無表情で拷問に加担していた少年兵たちは、陽気に踊り狂います。まるで暴力に慣れきってしまった彼らの不条理を象徴するかのようです。
以上が「ソドムの市」のあらすじとなります。過激な内容に胸が悪くなった方も多いかもしれません。しかし、そこにはファシズムへの痛烈な批判、権力に翻弄される民衆の悲劇が描かれているのです。鑑賞には覚悟が必要な問題作ですが、衝撃の向こうにある監督のメッセージを受け取っていただければと思います。
「ソドムの市」の過激表現と注意点
性的・暴力的描写
「ソドムの市」を鑑賞しようと考えている方は、本作に含まれる過激な表現に十分ご注意ください。まず、性的・暴力的描写が非常に多いのが特徴です。性暴力やレイプ、性的拷問など、あらゆる組み合わせの性的行為が赤裸々に描かれ、中にはわいせつ表現の限界に挑戦したかのような場面もあります。無修正の性器や肛門が映し出されることも。また、未成年の少年少女が犠牲になるシーンが多いため、児童ポルノ的とも受け取られかねない内容です。
スカトロ・グロテスクな場面
次に、スカトロ表現やグロテスクな場面も多数登場します。大便を食べさせる、小便や排泄物が性的な文脈で扱われるなど、かなりの覚悟が必要でしょう。拷問や処刑のシーンでは、生殖器切除や斬首など残酷な手口が描写され、無表情に残虐行為に加担する少年兵の不気味な様子も印象的です。他にも屍姦、獣姦、カニバリズムを連想させる場面があるなど、徹底して倒錯的な世界が展開されます。
以上のように、本作はかなりハードコアな作品だと言えます。重ねてご注意いただきたいのは、未成年への性的虐待を想起させる場面です。刺激に弱い方、過激な表現が苦手な方は鑑賞を控えたほうが無難かもしれません。また、現実の犯罪や暴力を助長する意図は一切ありませんが、あまりに露骨な描写によって精神的な苦痛を受ける恐れもあります。
その一方で、物議を醸した過激表現も、監督の意図を理解する上では重要な要素です。権力に翻弄される民衆の悲劇を描くことで、ファシズムへの痛烈な批判を描いているのだと解釈できるでしょう。しかし、中にはそこに問題のある思想や革命への熱狂を美化しているように捉える向きもあるかもしれません。
いずれにせよ、「ソドムの市」は数々の過激表現を通して強烈なメッセージ性を放つ問題作であることは間違いありません。気になる方は、これらの注意点を念頭に置きつつ、思慮深く鑑賞なさってください。
パゾリーニが「ソドムの市」で表現したかったこと
権力と個人の関係
「ソドムの市」の過激な内容は、一見すると単なる倒錯的世界の描写のようですが、そこにはパゾリーニ監督の深い意図が込められています。まず、4人の権力者が少年少女を思うがままに支配し、加虐的行為を繰り返す構図は、権力と個人の関係性を象徴的に表現しているのだと解釈できます。為政者の圧政に苦しむ民衆の悲劇、弱者が権力に蹂躙される不条理を描くことで、現代社会の縮図を作品内に投影しているのです。宗教権力が民衆の自由を抑圧する様子にも、禁欲や節制を強いる宗教観への批判を読み取ることができるでしょう。
ファシズムへの批判
また、原作の舞台を、ムッソリーニ政権末期の北イタリアに置き換えたことで、本作はファシズムへの痛烈な批判という色彩を強めています。ファシストたちの別荘は、まるで強制収容所を思わせる密室空間。無辜の少年少女が理不尽に拘束され、虐げられる様子からは、ナチス・ファシストによるユダヤ人迫害の歴史が想起されずにはいません。最後の晩餐を模した乱交シーンには、聖なるものを冒涜することで、既存の価値観を根底から覆す意図すら感じられます。
消費社会の倒錯
さらに、色と欲に溺れ、快楽のためなら人間をモノのように扱う権力者たちの姿からは、行き過ぎた消費欲望への警鐘も読み取れます。作中、彼らは少年少女を性的に搾取し、拷問・処刑の対象として消費します。まさに歯止めの利かない消費社会の倒錯ぶりの表れと言えるでしょう。一方、そうした残虐行為に無感情に加担する少年兵たちには、物質的豊かさの中で失われゆく人間性の危機が表現されているようです。
パゾリーニは、現代社会の消費主義化と新たなファシズムの台頭を同一視し、その双方に警鐘を鳴らそうとしたのかもしれません。あまりに露骨な描写は、却って私たちの心を動揺させ、現代文明の歪みを直視せざるを得なくさせるのです。「ソドムの市」が投げかける問いは重く、それでいて紛れもなく現代に通じるものがあると言えるでしょう。
「ソドムの市」に秘められた衝撃の事実
公開当時の反応と評価
「ソドムの市」には、公開当時のスキャンダラスな反響と、監督の謎めいた死が暗い影を落としています。
本作が初めて公にされたのは、1975年のパリ映画祭でのこと。あまりの過激な内容に賛否両論が沸き起こり、一躍話題作となりました。続くイタリア公開時には、わいせつ物頒布等の容疑で告発される騒動にまで発展。それでも批評家の間では、斬新な表現と思想性が高く評価されるなど、物議を醸しつつも注目を集め続けたのです。
パゾリーニ監督殺害事件との関連
しかし、本作の余波はそれだけでは収まりませんでした。公開からわずか1ヶ月足らずで、監督パゾリーニが惨殺死体で発見されるのです。17歳の男娼ジュゼッペ・ペロージが逮捕され、殺害を自白。少年の単独犯行で決着するかに思われました。
だが、遺体の損傷があまりに激しく、単独犯の可能性は低いのではないかと指摘されます。1970年代のイタリアはテロの時代。多くの知識人が暗殺された中、パゾリーニもその標的にされたのでは?という憶測が広がったのです。さらには、「ソドムの市」の危険思想が災いし、右翼から命を狙われたのではないかとも囁かれました。
振り返ってみれば、製作中の1975年8月、パゾリーニの自宅から「ソドムの市」の脚本やフィルムの一部が盗まれるという不審な出来事もありました。
当時のイタリアに蔓延していた暴力と陰謀。そして、「ソドムの市」という衝撃作が世に放たれたことで、パゾリーニは何者かに消されてしまったのか。真相は闇に閉ざされたままですが、だからこそ、この問題作にはスキャンダラスな魅力が際立っているのかもしれません。自由な表現の代償が、あまりに大きかったことを、私たちに伝えているのです。
映画「ソドムの市」を観る前に知っておきたいこと
鑑賞する上での心構え
「ソドムの市」を観る前に、まず知っておくべきなのはその徹底した過激さです。本作は最初から最後までわいせつで不快な場面の連続。性器や排泄物の露骨な描写、性暴力や拷問など、あらゆる面で私たちの倫理観に挑戦してきます。普通の感覚を持つ人間なら、おぞましさに思わず目を背けたくなる場面も多いでしょう。だからこそ鑑賞には、相当の覚悟が必要なのです。
とはいえ、何も理不尽な嫌悪感に苛まれるためだけに、この作品を観るわけではありません。「ソドムの市」があくまで芸術作品であることを意識し、倒錯的な表現の向こうにある重要なテーマを読み取る姿勢が欠かせません。そのためには、自身の倫理観や道徳心を揺さぶられる場面も冷静に受け止める必要があるでしょう。
さらに、観客は作中の出来事をフィクションとして割り切ることが大切です。いくら生々しい描写でも、あくまでそれは虚構に過ぎません。決して現実と混同してはいけないのです。特に、社会的弱者に対する差別や偏見を助長するような意図は作品にはありません。そこに描かれる残酷な行為は、あくまで象徴として受け取るべきでしょう。
パゾリーニ監督の他作品
本作の理解を深めるには、パゾリーニ監督の他作品を観ておくのも有効です。初期の「アッカトーネ」や「奇跡の丘」は社会的弱者に焦点を当て、「テオレマ」では資本主義社会の矛盾を描きました。古典作品を独自解釈した「メディア」「オイディプス王」なども、監督の問題意識を知る手がかりになるはずです。パゾリーニは生涯を通じて、現代社会の退廃を鋭くついた芸術家だったのです。
類似した問題作
また、「ソドムの市」と問題意識を同じくする作品も数多く存在します。ピエール・パオロ・ピーロの「サロ」も、サドの原作をもとに過激な性描写に挑んだ作品。フェデリコ・フェリーニの「カリガリ博士の舞踏会」、村上龍の小説「コインロッカー・ベイビーズ」なども、同作の影響下にあると言えるでしょう。日本の「獣の戯れ」に代表されるピンク映画の系譜にも、通底するものがあります。
このように、「ソドムの市」は撮る者も観る者も、決して身軽に近寄れない作品です。倫理的な危うさに怯えながらも、同時代の芸術に対する真摯な眼差しが宿っている。その点を踏まえた上で向き合うことが、本作の真価を理解する近道なのかもしれません。過激な表現に眩惑されつつも、同時にその深層を冷静に見つめる。芸術作品と正面から対峙する醍醐味を、存分に味わっていただければと思います。