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『山月記』は中島敦の代表作の一つであり、「人間とは何か」という根源的なテーマを問いかける作品です。 主人公・李徴が虎に変身するファンタジックな物語を通して、人間社会の矛盾や自己欺瞞の問題を浮き彫りにしています。 同時に、仏教思想の影響を受けた東洋的な世界観も色濃く反映されており、日本近代文学の中でも独自の位置を占める作品と言えるでしょう。
この記事では、『山月記』のあらすじを丁寧に追いながら、物語に込められた深い主題や解釈の可能性についても考察していきます。 名作の魅力を余すことなく伝えられるよう、名場面の数々も詳しく紹介する予定です。 中島敦の作家としての特徴にも触れつつ、『山月記』の世界へと皆さんを誘ってまいりましょう。
山月記とは?中島敦の名作を簡単に紹介
山月記の作者・中島敦の生涯と作風
『山月記』の作者・中島敦は、1909年に東京で生まれました。東京帝国大学で支那文学を専攻するも、在学中に両親を亡くし、学費が続かず中退。その後、執筆活動を開始し、独特の詩情や比喩表現、洗練された文体で知られる作品を次々と発表します。東洋的な題材を知的に昇華した作風は高く評価され、没後には三島由紀夫や小林秀雄らに才能を認められました。しかし、1947年、わずか38歳で肺結核のため早世。日本文学史に確固たる地位を築いた作家です。
山月記が書かれた背景と初出情報
『山月記』は1942年9月、「文芸春秋」で初出されました。当時は第二次世界大戦の最中であり、中島敦は峻厳な時代の中で作家活動を続けていました。風刺と寓意に富む作風は、時局へのひそかな抵抗とも受け取れます。中島敦自身の創作活動や病魔との闘いを重ねた心象風景とも言われており、『山月記』には、現実に流されまいとする詩人の心象が投影されているのかもしれません。李徴の姿を借りて、理想と現実の乖離に苦悩する知識人の姿を描いたと解釈される所以です。
山月記のあらすじ①:虎になる前の李徴
李徴の性格と仕官への思い
山月記の主人公・李徴は、自尊心が高く、理想に燃える青年詩人です。仕官を目指す李徴は、功名心に突き動かされるものの、その実、権力者への嫌悪感を抱いていました。科挙に合格するも赴任先では権力者に阿る態度を取らず、疎まれてしまいます。結局、李徴は役人を辞め、詩家として名を残そうと考えました。
発狂し、姿を消す李徴
数年の時が流れましたが、李徴が詩家として名を上げることはできず、経済的に困窮していきます。妻子を養う事すらままならくなった李徴は、仕方なく一地方官吏の職に就きました。しかし、李徴のかつての同僚たちはすでに出世しており、李徴は彼らに命令される身となりました。自尊心が高く、この屈辱に耐えられなくなった李徴は、発狂して姿を消します。
山月記のあらすじ②:人間と虎の狭間で
袁傪と一匹の虎の出会い
李徴の旧友で、監察御史の袁傪は、旅の途中で一匹の虎に襲われます。虎は袁傪を見ると、はっと驚いたように茂みに隠れ、「あぶないところだった」と人の声でつぶやいたのです。袁傪はその声に聞き覚えがありました。それは、李徴の声だったのです。袁傪が声をかけると、虎は、「自分は李徴だ」と低い声で答えました。
李徴の詩と告白
李徴は虎になってしまった理由について、全くわからないと言います。さらに、日に日に人としての心を保てなくなっている、と袁傪に話します。そして、自分が完全に人の心を失ってしまう前に、自分の詩を後世に残してほしいと袁傪に頼みます。李徴は即席で詩を作った後、自分が虎になった理由は、自身の臆病な自尊心、尊大な羞恥心、またそれゆえに切磋琢磨をしなかった怠惰のせいであると告白しました。
山月記のあらすじ③:虎としての生と結末
袁傪との別れ際、李徴は自分の妻と子のことを袁傪に頼みます。そして、「妻子よりも詩を優先するような男だから、このような姿になってしまったのだ。」と自己を省みながら、自分が虎になった理由にたどり着きます。
茂みの中から漏れる悲涙の声を背に、袁傪も涙を流しながら、李徴の元を去っていきます。やがて丘の上に着いた袁傪が振り返って見たものは、一匹の虎が茂みから躍り出る姿でした。虎は月に向かって咆哮し、再び茂みに入っていきました。そして、再び姿を見せることはありませんでした。
山月記の主題と解釈
「虎になること」の象徴的意味
山月記における「虎になる」ことの象徴的意味を考えると、人間社会の虚偽や矛盾から逃れ、本来の自分を取り戻すことの象徴ではないかと解釈できます。仕官を志す李徴は、出世の野望と権力者への嫌悪感の間で激しく揺れ動きます。そうした葛藤から解放されるために、李徴は虎になることを潜在的に望んでいたのかもしれません。つまり、虎になることは、人間の仮面を脱ぎ捨て、自己の本質に目覚めることの隠喩なのです。
ただし、虎になった李徴も、完全に人間性を失ったわけではありません。袁傪との問答は、李徴の中に人間の心が残っていたことを示しています。李徴の魂は、人間と虎の間を彷徨い続けるのです。こうした曖昧さ、両義性こそが、山月記の大きな魅力であり、李徴という存在の普遍性を生んでいるのかもしれません。
仏教思想から読み解く山月記のテーマ
山月記には仏教思想の影響も見られます。無常観や輪廻転生の思想は、李徴の運命を暗示する伏線となっています。人間の世界は仮象に過ぎず、真の自己を求めて彷徨うことこそが本当の生だ、という見方は、仏教的な世界観に通じるものがあります。袁傪の言葉には、人間の執着を断ち切り、悟りを開くことを勧める禅の思想が読み取れます。
こうした思想的背景を理解することで、山月記の新たな解釈の可能性が開かれます。単なる不思議な物語ではなく、深い哲学的テーマを内包した作品として読み直すことができるのです。